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冬富士と谷中湖/©堀内洋助
渡良瀬遊水地の成り立ち
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旧谷中村の哀史を刻む
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冬の風物詩・ヨシ刈り/©堀内洋助
村民の悲願を水面に映して

栃木・群馬・埼玉・茨城の被害民は、政治家・田中正造とともに足尾銅山の操業停止と被害救済を訴えますが、明治政府は「富国強兵」「殖産興業」のシンボルであった足尾銅山を擁護し、被害民の訴えを退けました。そして明治36(1903)年、この土地を「洪水防止を目的とした遊水地」という名目で、最下流の谷中村を鉱毒沈殿池として沈めることを決めたのです。

明治39(1906)年、農地は鉱毒によって荒廃し、谷中村は藤岡町に強制合併されて廃村となり、谷中村に暮らした人々は近隣の町村や那須郡、遠くは北海道などへ移住を余儀なくされました。新たな環境での生活にはさまざまな苦労があったと伝えられています。このように、渡良瀬遊水地は当時の村民の大きな犠牲の上に成り立っているのです。

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渡良瀬遊水地の菜の花/©Eugene Cheah
恵みの川から死の川へ「足尾銅山鉱毒事件」

渡良瀬遊水地が形成される以前のこの一帯は、「谷中(やなか)村」という水に恵まれた農村で、赤麻沼をはじめいくつもの沼や湿地帯がありました。1889(明治22)年、下宮(したみや)、恵下野(えげの)、内野(うちの)の山村が合併して谷中村となり、約380戸、2500余の村民が農業、漁業、菅笠(すげがさ)づくりなどで生計を立てていました。

ところが明治10(1877)年、古河市兵衛が渡良瀬川最上流の足尾銅山を買収して経営に乗り出すと、銅の生産が進むにつれて恵みの川は死の川へと転じてしまいます。特に明治20(1887)年以降には洪水とともに鉱毒の流出が激化し、下流域一帯は農業、漁業、健康、環境面において壊滅的な被害を受けます。これは「足尾銅山鉱毒事件」として時代を揺るがす大きな社会問題になりました。

©渡良瀬遊水地歴史・自然ガイド
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田中 正造
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
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明治時代の谷中村付近地図
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